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緑陰の涼風♪北又の銀杏~84歳小西さん盆踊り述懐

和歌山県九度山町北又の九度山町天然記念物「北又の銀杏(きたまたのいちょう)」は、今夏も樹勢よく堂々たる緑陰を落とし、観光客に涼風を恵贈している。北又地区は全国の例にもれず、小集落化していて、地元の農林業・小西正司(こにし・まさし)さん(84)は「昔、この銀杏の下で、近郷の人々が集まり、盆踊りを楽しんだ」と述懐。北又の銀杏とともに集落の存続を期待している。
北又の銀杏は、北又の鎮守の杜の境内に立つ、樹高約20メートル、枝張り約15メートル、幹周り約3メートル、樹齢約250年以上の巨木。そばには高野山近くの摩尼山(まにさん)を源流として、玉川(紀伊丹生川)に注ぐ北又川が流れている。
北又の銀杏の根は、北又川の地下水を飲む。玉川は紀の川に注いでいるので、北又川の水は紀伊水道、さらに太平洋の水、やがて雲となり、その雨の一部は奇跡的に摩尼山に降る。
小西さんの話によると、第二次世界大戦後は20数世帯、約100人の集落で、子どもたちは久保小学校(今は廃校)に通っていた。北又の銀杏そばにある御堂内では、施餓鬼会(せがきえ)など仏教行事が営まれ、八朔(はっさく=旧暦8月1日)には、北又の銀杏の下で盆踊り。
銀杏の木に和太鼓をくくりつけ、若衆が元気な撥(ばち)さばきを見せながら、伝統の「やっちょんまかせ」音頭を取る。他の集落からも、ゆかた姿の男女が集まってきて、二重三重の輪になって、踊り明かしたという。
ところが、昭和28年7月18日の紀州大水害で、北又川が氾濫、人命被害はなかったものの、家屋3軒が流失し、川沿いの道路は完全崩壊。大変な生活苦を強いられ、仏教行事は続けたものの、盆踊りには終止符が打たれた。その後、少子高齢化は進み、今は、5世帯10人の小集落になっているという。
小西さんは幸い息子さん夫婦と4人暮らしで、五体も至って健康。自宅周辺の田んぼで米や野菜を栽培し、自ら木製ハシゴを作って、山林の手入れにも精を出している。
「北又の銀杏」は、その幹や枝々の約20か所から、乳房の形をした気根(きこん=長さ10~50センチ)が、隆々と垂れ下がっているのが特徴。小西さんは「この気根の大きさや形は、子供の頃から、ひとつも変わっていない」と証言。「いつまでもこのたたずまいを残してほしい」と、大銀杏を見上げていた。
この地域の歴史や自然に詳しい「玉川峡愛好会」の上西進(うえにし・すすむ)代表は「私も半世紀前、ここで盆踊りをしました。今はもう盆踊りはありませんが、素晴らしい自然は残っています。皆さん、弁当持参で北又の銀杏を見物し、地域を活気づけてください」と話していた。
「北又の鎮守の杜」へのアクセスは、車で橋本市から国道371号を高野山方向へ走り、同市落合(2差路)の右側(県道)を直進、北又川沿いに走り約2キロの地点。山中にはイノシシなどが生息、県道に小石が落ちている場合があり、落石を踏んでパンクしないよう要注意。
写真(上)は北又の銀杏の素晴らしさを紹介する小西さん。写真(中)は北又の銀杏の隆々たる気根。写真(下)は北又の銀杏の根に腰を下ろして昔を述懐する小西さん。


更新日:2015年7月26日 日曜日 00:00

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