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修復・常夜灯籠、往時しのぶ~紀の川・渡し舟の目印

和歌山県橋本市東家の高野山麓を流れる紀の川北岸で、江戸時代後期から昭和初期まで、高野参詣人の舟渡しを見守ってきた「東家大常夜灯籠(とうげだいじょうやとうろう)」が解体修復・再建され、橋本の観光スポットに浮上している。橋本市観光協会の畑野富雄(はたの・とみお)会長は「多くの高野参詣人が、ご先祖や家族のことを思い、夜でも紀の川を渡っていたことを、しのんでもらえれば」と言っている。
橋本市教委や橋本市誌によると、橋本市の地名由来となった紀の川の「橋」は、天正15年(1587)、高僧・木喰応其上人(もくじきおうごしょうにん)が初めて架けたが、その3年後には豪雨増水により流失してしまった。
以来、昭和7年(1932)に架橋(現在の橋本橋の前の橋)されるまでの342年間は、紀の川に橋がなく、大阪や京都方面から、高野街道を歩き、高野山・金剛峯寺へ向かう参詣人は、紀の川に来ると、渡し舟などを利用するほかなかった。
そんな状況の中、宝暦2年(1752)、同市賢堂の紀の川南岸に「三軒茶屋大常夜灯籠」2対(高野山 興山寺寺領の銘文入り)が建立され、さらに文化11年(1814)には、同市東家に「東家大常夜灯籠」2対が、徳島、京都、難波、堺の商人や川舟仲間、信者などの浄財で建立された。
この両岸の渡し場を「無銭横渡(むせんよこわたし)」と呼び、渡し舟が昼夜を問わず、多くの高野参詣人らを運び、両岸の大常夜灯籠は、その航行安全の目印の役割を果たしてきた。
近年では約20年前、南岸の常夜灯籠を区画整理事業のため解体修復し、うち1基をやや東へ移設した。一方、北岸の常夜灯籠2対のうち1基は、豪雨増水のため流失し、残る1基は嵩(かさ)上げされた堤防の下方にあったが、今回、解体修復したうえ、堤防上に移設した。
紀の川南岸の国城山系の山腹から見渡すと、紀の川に注ぐ橋本川河口右岸に、東家大常夜灯籠があり、その東に現在の頑丈そうな橋本橋が架かる。背景にはJR・南海橋本駅周辺の町並みや、県立橋本高校、丸山公園などが見える。
その東家大常夜灯籠のそばに立つと、対岸の三軒茶屋大常夜灯籠が小さく見え、背景には国城山系の山並みを仰ぐことができる。今では、上流にダムが建設された後、普段の水量が激減し、豪雨の際は土砂が堆積して、川の風景は一変している。それでも、水量の多かった戦国時代以降は、おびただしい数の高野参詣人を、次々と舟で渡してきたことに違いない。
また、第二次大戦後の紀の川について、賢堂の男性(65)は「私が小学生の頃には、恋野から学文路までの間に、5か所の渡し場があり、船頭さんが両岸に渡したロープを引っ張って舟を動かしていた。乗るのが楽しみだった」と述懐し、同市高野口の女性(70)も「舟で紀の川を渡り、慈尊院へお参りした」と懐かしんでいた。
橋本市教委の大岡康之(おおおか・やすゆき)学芸員は「ここは高野街道から、紀の川を渡って、高野山へ登る重要ルート。常夜灯籠は、その大切な歴史を物語る、橋本市指定の文化財です」と説明。畑野会長は「ここに立てば、弘法大師・空海の開いた高野山に参拝する人々の気持ちが伝わってきます。橋本・伊都地方の観光コースの大切な1ポイントです」と語った。
写真(上)は美しく解体復元し再建された東家大常夜灯籠。写真(中)は国城山系の山腹から展望した紀の川=橋本橋下流に注ぐ橋本川河口の右岸堤防に東家大常夜灯籠がある。写真(下)は三軒茶屋大常夜灯籠。


更新日:2015年2月6日 金曜日 00:00

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