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シベリア抑留・阪口さん帰還証言⇒戦場体験史料館

太平洋戦争を体験した老兵たちの映像・証言をインターネットで公開している「戦場体験史料館」(戦場体験放映保存の会=東京)は、10月18日、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭さん(85)方を訪れ、その苦難の帰還証言を取材した。同史料館では「今は、ご存命の方々の映像・証言収集に全力をあげていますが、阪口さんの映像・証言も、大切に保存・紹介させていただきます」と言っている。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊。その直後に関東軍から陸軍二等兵を命じられ、中国・ソ連の国境で転戦。手榴弾(しゅりゅうだん)で頭に負傷し、左耳が聴こえなくなった。同20年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が「荒城の月」の曲を流して、日本の敗戦を告げ、投降を迫って捕虜にされた。
シベリアに向け約370キロを行軍する途中、空腹と疲労で、戦友が次々倒れる。自分も倒れそうになった時、偶然、草むらに落ちていた1粒のキャラメルを拾い、それを食べたところ、全身が熱くなり、力がわいてきて、奇跡的に助かった。
シベリアでは、零下30度の寒さの中、石炭堀りや鉄道建設、森林伐採などの重労働を強いられ、食べ物は黒パン一切れと塩スープのみ。多くの戦友が飢えと寒さで命を落とした。阪口さんはそれら2年余の苦難を乗り越え、昭和22年12月に帰国した。
この日、阪口さんはカメラ・マイクに向かって、詳細に証言。そのあらましは、例えば「私は〝満蒙開拓〟のため中国に渡ったが、実は陸軍省は〝中ソ国境地帯の兵力補強のため〟すでに昭和12年11月、関東軍と諮って〝満蒙開拓義勇軍〟を創設。私はいきなり兵隊にされた」と、戦後になって気づいたことを明かした。
「私は兵隊として、さっそく将校から手旗信号や匍匐(ほふく)前進、手榴弾の投げ方などを教わり、破甲爆雷(はこうばくらい)と言って、敵の戦車を爆破する信管を体に着けて、蛸壺(たこつぼ)と言われる穴で待機したこともある」と語った。また、「何百という戦友の遺体を、ソリに乗せて、極寒の奥地に運び、積み上げさせられたし、奥地には山犬の群れがいるので、戦友がかわいそうで、しのびなかった」と述懐した。
また「ソ連兵が投げた手榴弾の破片が頭に当たった瞬間は、鉄棒で殴られたような激痛が走り、その後、かなりの時間、気を失っていたと思う。戦場で軍医の永田義雄・旧陸軍中尉(故人)が、〝おい阪口、ここには麻酔はないぞ、しかし、我慢せい、おれが助けたる〟と激励。手術の間、あまりの痛さで意識はなかったが、見事、突き刺さった破片を除去してくれて、一命をとりとめた」と感謝。シベリアから極秘で持ち帰った「戦友存命手帳」の中から、永田・旧陸軍中尉の住所・氏名を探し出し、はがきで「命の大恩人」として、お礼の言葉を綴った。「近い将来、お墓参りがしたい」と切望している。
同資料館の田所智子・事務局次長は「すでに戦場体験の老兵たちの帰還証言は、1000人以上にのぼり、約2年前からは100人以上の映像・証言をインターネットで紹介しています。とくに戦争を知らない若い人たちは、ぜひ、ご覧ください」と言っている。
なお、阪口さんは、9月14日、エルおおさか(大阪府立労働センター)で開かれた「戦争を考える展」を訪れ、主催者側の厚意で展示されていたシベリア抑留の〝戦友の死〟〝過酷な労役〟などの絵を複写。橋本・伊都地方の小中学校や、高齢者の集いなどの「戦争体験・講演会」で披露し、「反戦平和」を訴えることにしている。
写真(上)は、戦場体験史料館からシベリア抑留生活・帰還証言の取材を受けた阪口さん。写真(中、下)はシベリアで戦友の最期を看取る戦友たちの絵と、過酷な労役に駆り出される日本兵たちの絵=いずれも「戦争を考える展」より。


更新日:2013年10月19日 土曜日 10:30

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