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地蔵像・胎内から古文書…高野山・女人堂で造立?

平安時代末期の歌人・西行法師がとどまった地と伝えられる、和歌山県橋本市清水の「西行庵」の本尊・地蔵菩薩坐像(室町時代)が、もともと同県高野町の高野山・女人堂の本尊として造立されたと推量される古文書が、和歌山県立博物館・学芸員の調査で、地蔵菩薩の胎内から見つかった。それが今なぜ、高野山麓の「西行庵」に安置されていたかは不明で、このロマン溢れる地蔵菩薩坐像は、10月20日~12月2日、和歌山市の県立博物館で開催される特別展「高野山麓 祈りのかたち」に展示される。
地蔵菩薩坐像は高さ約1・5メートルの木彫。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持ち、鎮座している。
「西行庵」は高野山麓の旧高野街道わきで、江戸時代の紀伊名所図会では「地蔵堂」と呼ばれている。建物(西行庵)の老朽化により現在、新築中で、収蔵されていた地蔵菩薩坐像など40体は、橋本市郷土資料館で保管していた。
このほど県立博物館・学芸員の調査で、この地蔵菩薩坐像はその形状から、室町時代に製作されたものと判明。胎内から見つかった古文書には、「高野山の六十六部(全国を廻る行者)の然誉宗廓(ぜんよ・そうかく)が、女人堂・本尊の地蔵菩薩坐像の造立(ぞうりゅう)・勧進(かんじん)を考え、その資金集めに全国を行脚。正徳4年(1714)に勧進」という意味のことが記されていた。
この地蔵菩薩坐像が、室町時代の製作であることから、この場合(江戸時代)の「造立」とは、「仏像を修繕・安置」という意味と考えられ、廻国行者・然誉は当初、高野山・女人堂での造立を発願して、全国で浄財を集めて、修繕・造立した。
ただ、造立場所については、高野山・女人堂だったか、高野七口(高野山・参詣の7ルート)に点在した女人堂であったかは不明。また、それがなぜ「西行庵」に祀られていたのかもわかっていない。
橋本市郷土資料館の有澤斗志夫館長は「地蔵菩薩坐像は、しばらく当館でお預かりしましたが、座っている地蔵菩薩は珍しく、訪れる小学生らは手を合わせて拝観していました」と話す。
この謎を秘めた地蔵菩薩坐像…、特別展「高野山麓 祈りのたち」では注目されそうで、同博物館の大河内智之・学芸員は「いずれにしても、然誉が地蔵菩薩坐像の勧進に真剣に取り組んだこと、地蔵菩薩坐像の保存状態は良く、今日まで、地元の方々の手で守られてきたことは事実で、これは素晴らしいことだと思います」と話した。
特別展「高野山麓 祈りのかたち」は、入館料一般800円、大学生500円。高校生以下、65歳以上の方、障害者手帳をお持ちの方、和歌山県内に在学中の外国人留学生は無料。開館時間は午前9時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。月曜日は休館。
写真(上)は橋本市郷土資料館に保存展示されていた「西行庵」の地蔵菩薩坐像など。写真(中)は地蔵菩薩坐像。写真(下)は高野山・女人堂。


更新日:2012年9月28日 金曜日 14:47

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