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橋本駅・空襲の犠牲者6人目判明…追悼の碑に刻む

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR南海・橋本駅での、米軍機の機銃掃射による犠牲者は、新たに2人の氏名が確認され、計6人だったことが、9月9日までに、米軍銃撃犠牲者追悼の会(阪口繁昭代表ら有志5人)の調べで確認された。
同会は、犠牲者の命日にあたる今年7月24日、近くの丸山公園・地蔵菩薩前に〝追悼の碑〟(高さ53センチ、幅56センチ、厚さ10センチの御影石製)を建立した。
そこには「平林靖敏十五才 恋中圭一四十七才 山本稔三十八才 菅野廣雄十九才」と、犠牲者4人の氏名・年齢を刻んだ。駅構内での犠牲者は、あと2人いるとの未確認情報があったため、〝追悼の碑〟には2人分の余白を残していた。
同会が「追悼・除幕式」を行った後、「犠牲者はあと2人おられる」との地元情報を得たが、「〝追悼の碑〟に氏名、年齢を刻むには、遺族からの依頼が必要」と判断していた。先月、同市矢倉脇の海立節子さん(当時20歳)、9月7日には同市柱本の坂上貢さん(同14歳)の、2人の犠牲者名が相次いで確認され、遺族から〝追悼の碑〟に氏名を刻むよう依頼があったため、先ず海立さんの氏名、年齢を刻み、新たに坂上さんの氏名、年齢を刻むことにした。
橋本駅・空襲は1945年(昭和20)7月24日午前10時頃、米軍・艦載機2機が飛来。橋本駅の駅舎や2番線上りホームに停車中の貨物列車に機銃掃射を浴びせ、積荷の松根油(しょうこんゆ)入りドラム缶が爆発。駅構内にいた6人が犠牲になった。6人以外にも、駅周辺では犠牲者4人がいたとの未確認情報があるが、同会では〝追悼の碑〟に刻むのは駅構内の犠牲者のみとし、駅周辺の犠牲者名がわかった場合、〝追悼の碑〟前で法要の都度、僧侶に氏名、年齢を提示し、ともに供養することにしている。
橋本駅・空襲の時、柱本小学校で、坂上さんの妹と同級生だった同市矢倉脇の主婦は、「南海高野線・林間田園都市駅の周辺に高層マンションがない時代、この辺からも、艦載機が橋本駅の上空を旋回し、急降下するのが見えました。坂上さんは旧制・伊都中学校に通っておられて、とても成績優秀だと評判でした。後に、あの空襲で犠牲になったと聞いて残念でしたし、戦争の悲惨さをつくづく感じまた」と振り返っていていた。
阪口代表は「これで橋本駅・空襲による、駅構内での犠牲者6人のお名前は、すべて判明しました。ご遺族の皆様、市民の皆様とともに、心からご冥福をお祈りいたします」と話した。
写真(上)は今年7月24日に丸山公園・地蔵菩薩前で営まれた〝追悼の碑〟の除幕式。写真(中)は〝追悼の碑〟には、6人目の坂上さんの氏名を刻むスペースを残している。写真(下)は橋本駅から移設展示保存した銃弾跡の残る板壁や、新設した〝追悼の碑〟。


更新日:2012年9月9日 日曜日 12:44

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