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橋本駅空襲・犠牲者の碑…24日に追悼・除幕式

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR南海・橋本駅で、米軍機の機銃掃射により、犠牲になった市民4人の〝追悼の碑〟が地元の丸山公園・地蔵菩薩前に新設され、命日の7月24日、遺族や関係者らが集まり「追悼・除幕式」が行われる。主催者の同追悼世話人会(阪口繁昭代表)は「ぜひ犠牲者の冥福と恒久平和を祈ってください」と訴えている。
この悲劇は、1945年(昭和20)7月24日午前10時頃に起きた。米軍・艦載機2機が飛来し、橋本駅の駅舎や、2番線上りホームに停車中の貨物列車に機銃掃射を浴びせた。
このため積荷の松根油(しょうこんゆ)入りドラム缶が爆発し、ブラットホームや列車付近にいた大人や子どもが犠牲になった。氏名が確認できたのは4人だが、「犠牲者は5人いたのではないか」といわれている。
この空襲で、多数の銃弾跡が残った渡線橋の板壁と、その登り口脇にあった「大正元年九月 鉄道院 東京月島機械製作所製造」と刻まれた標柱は、同追悼世話人会の運動で、昨年、同地蔵菩薩前に移設されている。
板壁は高さ約1・8メートル、幅1メートルの扉型。標柱は高さ1・17メートルで、重さ250キロ。その下には、犠牲者の血で染まった土と銃弾などを埋葬。隣には屋根付き掲示板を立て、機銃掃射で市民が逃げ惑う様子を生々しく描いた水彩画(冨田全紀さん著「駅前 町家の風情」の挿絵)を掲示した。
今回、新設された「追悼の碑」は、高さ53センチ、幅56センチ、厚さ10センチの御影石製で、そこには「平林靖敏十五才 恋中圭一四十七才 山本稔三十八才 菅野廣雄十九才」と、4人の氏名・年齢を刻んだ。あと1人いるといわれる犠牲者については、氏名・年齢など不詳のため、判明した際に備え、余白部分を残している。
追悼・除幕式は、午前9時半ら、遺族や木下善之市長ら関係者が参列して開催。「追悼の碑」を除幕したあと、僧の読経の中、遺族や一般市民らが焼香。県立橋本高校の生徒やハーモニカ、アコーディオングループなどが〝追悼の調べ〟を演奏して、犠牲者の冥福を祈る。
「追悼・世話人会」の一人で、橋本駅近くに住む池永恵司さん(81)は「犠牲者の平林君は、旧制伊都中学校3年で、私と同級だった。空襲警報が鳴ったので、私は自宅待機。すでに橋本駅にいた平林君は、停車中の電気機関車の下にもぐりこんだが、銃弾を受けて…」と悔しがる。
また、「私がトイレの窓を開けた瞬間、米軍機が低空飛行で横切り、操縦兵の顔が見えた。そのとたん、バリバリと機銃掃射の音がとどろき、庭に薬きょうが降ってきた。生きた心地がしませんでした」と述懐。「これまで念願だった銃弾跡のある板壁を残すことが出来たし、〝追悼の碑〟も新設することができましたので、ほっとしています」と話した。
写真(上)は橋本市の丸山公園・地蔵菩薩前に新設された「追悼の碑」と左は阪口さん、右は池永さん。写真(中)は犠牲者4人の名前が刻まれた「追悼の碑」。写真(下)は銃弾と土を埋葬した標柱。


更新日:2012年7月20日 金曜日 21:22

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