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JR橋本駅の米軍・銃痕板壁~7月に移設記念式
太平洋戦争末期、米軍機の機銃掃射を浴びて市民4人が死亡、その弾痕が残る和歌山県橋本市古佐田、JR橋本駅の倉庫の板壁が、橋本市傷痍(しょうい)軍人会(阪口繁昭会長)の手で、地元の市立丸山公園内に移設され、その「犠牲者追悼・板壁移設展示・記念式典」が7月22日午前、同地で営まれることに決まった。阪口会長は「悲惨な戦争を繰り返さないためにも、ぜひ、多くの市民の方々の参加をお願いします」と訴えている。
同会の調査では、1945年(昭和20)7月24日午前10時頃、米軍・艦載機2機が飛来。同駅上空を旋回し、縦横に空襲。駅舎や2番線上りホームに停車中の貨物列車に機銃掃射を繰り返した。貨物列車に積んでいた松根油(しょうこんゆ)入りドラム缶が爆発し、貨物列車付近にいた中学生2人を含む市民計4人が犠牲になった。
この際、2、3番線ホームの渡線橋下の倉庫の板壁(約10平方メートル)には、直径約1~2センチの弾痕が約20個も残った。ところが、板壁は駅舎のバリアフリー化工事に伴い、取り壊されることになり、同傷痍軍人会が、JR西日本側に板壁の譲渡を要望。JR西日本は「大切に保存してくれるなら」と譲渡を約束。4月初め、渡線橋は撤去され、同板壁と渡線橋の登り口脇にある「大正元年九月 鉄道院 東京月島機械製作所製造」と刻まれた標柱を譲渡した。
阪口さんら市民有志は、地元の石井鉄工会社の協力で、丸山公園内にある地蔵菩薩像の斜め前に、基礎を作り、板壁(高さ約2メートル余り、幅約1・5メートル)を設置。地中には橋本駅構内の「土」を埋設し、標柱(高さ約1メートル角、重さ約250キロ)を建立。立て札(高さ約1メートル)を立てた。板壁には計12個の銃弾後があり、板全体には腐食防止の白い塗料を施した。
記念式では、傷痍軍人会やJR西日本など、関係者約30人が出席。空襲を目撃した地元の冨田全紀さんの著書「駅前 町家の風情」の挿絵を立て札に張り出し、県立橋本高校の吹奏楽部が演奏。犠牲者の冥福を祈る。
また、丸山公園内の地蔵菩薩像は、1938年6月15日、山陽線・和気駅(岡山県)で起きた列車事故で、犠牲となった橋本尋常小学校の児童ら30人を慰霊しており、同傷痍軍人会は「戦争と列車事故の2つの悲劇を風化させないよう、その犠牲者の霊をともに弔ってほしい」と話している。