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橋本駅周辺の町家~消える運命、歩いて記憶に

    埋め立て土砂は「ほんまち商店街」の間際まできている
    埋め立て土砂は「ほんまち商店街」の間際まできている
    埋め立て土砂は「ほんまち商店街」の間際まできている
    「ほんまち商店街」の北側はまだ建物があるが、南側はほとんど撤去されている
    国の登録文化財「火伏医院」の建物
    国の登録文化財「火伏医院」の建物

近世には、応其上人(おうごしょうにん=1536~1608年)が活躍し、商都として繁栄してきた和歌山県橋本市のJR南海「橋本駅」周辺のまち。その歴史的な町並みが「駅前市街地開発」で消えつつあり、「全壊」に向かって風前の灯の状態になっている。最近、「歩くなら今のうち」「写真に収めるなら今のうち」と、訪れる人もいるという。
橋本は旧高野、旧大和街道の交差地域で、応其上人は高野山を豊臣秀吉の攻撃から救い、高野参拝の橋を紀ノ川に架けた。また、秀吉の認可を取り付け、塩市が立ち、舟運が活発になり、宿場町としても栄えた。その歴史的な流れの中で、互屋根のどっしりした木造建築の町家や土蔵が軒を連ねた。ここ15年程前までは、同市古佐田、橋本、東家地区など駅前周辺で、約900軒の町家があったといわる。
ところが、紀ノ川に注ぐ橋本川が、豪雨のたびに氾濫(はんらん)し、商店街や町家に濁流があふれる。道路が狭くて消防車や救急車が通れない。下排水設備も芳しくない。橋本市の「市街地開発事務所」の話では、1996年12月、「橋本都市計画事業中心市街地第1地区土地区画整理事業」という、実に長々しい「題目(だいもく)」の事業が始まった。
この「第1地区」の場所とは、大別して、橋本駅前のバス通り周辺、橋本川~応其寺間、国道24号南側一帯での3地域で、広さは計約7・1ヘクタール。うち1・7ヘクタールは完成し、約3ヘクタールは整備中で、残りは、「財政健全化計画」に基づいて「事業を見直している」という。
現在、たとえば橋本川~応其寺間の「ほんまち商店街」周辺を見ると、南側を東西に走る国道24号は、御殿橋付近で、現在より1~1・5メートルかさ上げされる。これに伴い、商店街は1・5メートル前後、埋め立てられる。国の登録文化財に指定されている「火伏医院」や「まちかど博物館」の町家は、建物全体を移動させ、持ち上げて、元に戻すなど、計5軒は保存されるが、あとは建物も道路もすべて取り壊され、広大な更地となる。その後は、行政が新ルートで道路を新設、周辺には新築家屋、商店が立ち並ぶことになる。
すでに、橋本川の堤防から眺めると、空中に「ほんまち商店街」の看板だけが残り、アーケードのシートはボロボロに破れ、数軒の商店を残して、あとは撤去され、更地になっている。また、埋め立ての土砂が、国道側から次々と運ばれ、商店街の間際まできている。少なくとも、明治、大正、昭和、平成と、家を新築したり、増築したりしてきた、町家の風景が、もう見られなくなることは確かだ。
2002年には、長岡造形大学(新潟県長岡市)の平山育男教授と学生らが、市の依頼で町家を調査。02年には約500軒の町家のうち、100軒の調査結果をまとめ「橋本の町と町家」を出版した。当時、同大学の学生として調査を担当した梅嶋修さん(32)は、独自調査で「近代における町家建築・屋敷構え・町並みの形成」の論文をまとめ、博士号を取得し、今も残る400軒の追跡調査を続けている。町家は幸いにも記録されることになる。
自宅を「まちかど博物館」として、開放している呉服店経営・谷口善志郎さん(72)は「たしかに建物の保存はありがたいが、私も70を超え、将来に不安もあります」ともらし、「郷土は、すでに見る影もありませんが、応其寺前の商店街も、西側は、そのうち取り壊される運命です。できたら、若い人たちは、橋本の古い町並みを、自分の足で歩き、変わり行く風景を感じておいてほしいです」と話した。

更新日:2011年5月11日 水曜日 09:01

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